基礎生物学 講義内レポート
11月3日のレポート解説
問題
水は生命の発生に必須であったと考えられている。また、現在も水は生命の存続に必須である。このように考えられる理由を、水分子の性質から説明せよ。
説明には、水の性質から生まれる3つの弱い結合(相互作用を含む)を用いること。弱い結合が発生する機構も示せ。さらに、それらの弱い結合が細胞中で役割を果たす具体例を一つ以上あげ、その中で水の重要性を説明すること。
解答例
水分子は酸素原子O一つと水素原子H二つから構成される。OとHの結合では電子はO側に偏るため、O部分が負に、H部分が正に帯電する。この分子内の電荷分布が水分子間に、弱いクーロン力による結合を作る。これを水素結合と呼んでいる。
水素結合は水分子を結びつけ、局所的に結晶構造を作るため、油などの電荷を持たない疎水性分子が水に入り込むと水の結晶構造から排除され、疎水性分子同士が集合する。これを疎水性相互作用と呼ぶ。
また、本来共有結合の一つであるイオン結合は、水中ではクーロン力が水分子の電荷によって遮蔽され、結合力が非常に弱くなる。
生物は以上の3つの弱い力を用いることで、分子間に常温で解離可能な結合を作る。さらにその組み合わせで、本来常温では結合・解離が不可能な共有結合を切断したり、結合させたりする事ができる。これが酵素の触媒作用である。この作用により、生命は水中で物質・エネルギーの代謝を実現している。
また、生体膜は疎水性相互作用によって疎水部をもつ分子が集合しているため、互いに固定されず流動性をもち、構造が壊れても再度膜構造を作ることができる。このおかげで生体膜はタンパク質を組み込んで高度な機能を持つことができる。また細胞分裂などの際に膜構造を一時的に壊し、2つの細胞に再構築することができる。
その他、DNAの2重螺旋構造を形成するのも水素結合で、おかげでDNAは構造的に丈夫でありながら、必要なときには分離して塩基配列を読み取り、複製することができる。
以上の解答例では、重要なポイントのキーワードを赤字で示した。しかし、単にキーワードが書いてあっても、それだけでは正解とはしていない。重要なのは、キー
ワードを含めて「論理が文章で説明されている」ことである。単語だけ並べて、後は採点者に解釈させるような解答の仕方では、採点者に点をあげなければいけなくなってしまうので困る。
採点結果の報告
三つの弱い力について説明できた人が非常に少ない。
1、水素結合は水分子内の電子の偏りによって発生する、水素がもつ小さな正電荷と酸素がもつ小さな負電荷が、二つの分子との間にクーロン力は発生させて起きる力。
2、イオン結合は正負のイオンが共有結合しているとき、水分子の電荷によってクーロン力を遮蔽して結合力を弱めたもの。
3、疎水性相互作用は、水分子が作る結晶構造のエネルギーの安定化を崩す疎水性物質が,水分子に排除されることで発生する見かけ上の力。
特に、2、3についてはほとんど説明できている人はいなかった。しかし、酵素反応について説明するためには、これらの弱い力の理解は必須である。それ以
外にも、様々な生命活動で弱い力が使われている。それは核酸の塩基配列の認識と構造安定化、生体膜の流動性と選択透過、免疫における特異的認識、タンパク
質の構造決定など、生命現象の本質に関わる部分である。つまり、生物現象全体の理解において、弱い力の理解は基幹をなすと言って過言ではない。
酵素反応の重要性
炭素系物質の化学反応を基板とした生命現象においては、酵素作用が必須であることは間違いない。酵素作用を実現しているのは水素結合、疎水性相互作用、イオン結合の3つの弱い力である。(他に配位結合や分子間力が関与する場合もあるが、主には3つで説明される。)
弱い結合の重要性を述べる際に、複数の結合が集まることで強い構造ができることを説明した文が多いが、それらの結合は常温で切断されるので、構造を崩すこともできることが説明されていなければ正解にはならない。単に強い構造が必要というだけならば、共有結合でも良いのである。
水素結合は双極子間の力か?
水素結合は「水の電気双極子(分極)の間に働く力である」という解答は、なぜ正解ではないのか?
水素結合は水分子内で、最外殻電子が酸素の閉殻構造に近い状態をとることで、水素が正に帯電し、酸素が負に帯電することで起きる。この各原子の帯電と分
子構造により、水分子は電気双極子モーメントを持つ。電荷間には静電気力も働くが、電気双極子の間には誘電泳動力も働く。だとすれば、双極子間の力という
のも全く間違いではない。しかし、分子間の誘電泳動力は一般には分子間力と呼ばれ、水素結合のエネルギーに比べて小さい。水分子間の結合に関わるエネル
ギーからいえば、静電気力が全体の9割以上を占めるとすれば、それは静電気力(クーロン力)による結合と呼ぶのが妥当で、わずかな割合しかない双極子間の
力とは言わないのである。
双極子に働く力は一般に誘電泳動力(Dielectrophoretic
force)と呼ばれる。これはクーロン力の高次の項で、一次の項が我々がよく知る静電気力である。静電気力を議論する場合、点電荷だけで考えるか、高次
の項を無視することが多いので、誘電泳動力について学ぶ機会は少ない。
誘電泳動力はその次数と発生原因によっては、分子間力と呼ばれるものもある。分子間力は、強いものでも水素結合の1/10以下しかない。水素結合で働く双極子間の力は1%以下と考えられる。そのため、生命現象に関わる力としては無視されることが多い。
水素結合を分極間、または双極子間の力と説明した解答も多かったが、それは誘電泳動力なので明らかに間違っている。水素結合は、電子分布の偏りによって
水分子内に発生した電荷(例えば水素の正電荷)と、他の水分子の同様の電荷(例えば酸素の負電荷)がクーロン力によって引き合う力である。
インターネット上には、この問題とは違う状況を想定した説明、詳細を省略した説明、間違った説明、が多々存在するので、安易にネット情報を利用してはいけない。
これは生命の条件として必須か?
温度:現在の身の回りの生物は20-30℃付近の温度で最も活動しやすいように見える。しかし、もっと低い温度でも生命は維持されるし、生命の発生当時は
遙かに高い環境温度であったと考えられている。また、水は温度変化を小さくするだけで、平均温度は変えない。結局、水の存在は生命が比較的活動しやすい条
件を与えるだけで、生命の存在に対して本質的ではない。
溶媒作用:水は様々な物質を溶かす。しかし、アセトンなら水よりもさらに多くの物質を溶かすことができる。だからといって、アセトン中で生命が発生するか
といえば、そのようなことはあり得ないだろう。炭素系生命の本質は酵素作用にある。だとすれば、酵素作用を実現できる液体が生命には必要なのである。水が
必須である理由は溶媒としての作用ではない。
水の量が多い:生体に水が多く存在するのは、それが必要だからである。原因は水の必要性で、結果が水の量の多さ、である。それを逆に解釈して、水が多いから必要なのだと書いた人が多い。原因と結果を勘違いしていては、論理的な思考は不可能なので、注意してもらいたい。